ウエイトトレーニングは資本主義社会の産物?──それでも必要な理由とは
- 森 雅昭(かけっこ走り方教室/体操教室枚方市/大阪/京都
- 7月12日
- 読了時間: 4分
ウエイトトレーニングは資本主義社会の産物?──それでも必要な理由とは
「ウエイトトレーニングなんて、資本主義社会が作り出した不自然な運動だ。」
そう言う人が、時々います。確かに一理あります。ウエイトトレーニング──いわゆる“筋トレ”は、自然界に存在しない「鉄の塊(ダンベルやバーベル)」を持ち上げ、決まった動作を繰り返す、非常に人工的な運動です。
農作業や狩り、遊びや戦いの中で自然に鍛えられていた時代からすれば、筋肉を鍛えるためだけに「わざわざ時間を割いて負荷をかける」このトレーニングは、まさに現代社会が生んだ“商品化された身体管理”の象徴なのかもしれません。
しかし──それでも、私たちはウエイトトレーニングを必要としています。
この記事では、資本主義的な背景も踏まえた上で、それでもなお現代人にとってウエイトトレーニングが必要不可欠である理由を、深く掘り下げていきます。
ウエイトトレーニングの誕生と資本主義の関係
19世紀以降、産業革命を経て社会構造が大きく変わり、人々の生活は劇的に便利になりました。身体を使う仕事は機械に置き換わり、農作業や肉体労働はごく一部の人のものになっていきました。
こうして「日常生活の中で自然に筋肉が鍛えられる」という流れが途絶え、代わりに「意識的に体を鍛える」という考え方が必要になったのです。
加えて、広告やメディアは“理想の身体”を売り物にし、筋肉質なボディが「成功者」「セクシー」「自己管理能力の高さ」の象徴としてイメージ化されるようになります。ジムという空間は、身体の自己投資=資本としての身体の育成の場とも言えるでしょう。
つまり、ウエイトトレーニングは、社会構造の変化と市場経済の拡大が生んだ「人工的な身体文化」の一つと言えます。
それでもウエイトトレーニングは必要だと思う理由
では、そんな背景があるウエイトトレーニングは「無意味」なのか? そうは思いません。むしろ、現代人にとって非常に重要です。理由は主に3つあります。
1. 現代社会は“体を使わないこと”に満ちている
日常生活を見渡してみると、エレベーター、電動自転車、車、椅子、オンラインショッピング……すべて「楽をする」ための工夫に満ちています。
便利な世の中は素晴らしい一方で、「筋肉を使う場面」が極端に減っているのです。人間の身体は動くために設計されているのに、動かさなければ確実に退化していきます。
その“失われた動作と筋力”を、意識的に取り戻す手段が、ウエイトトレーニングなのです。
2. 加齢とともに減っていく筋肉──ロコモ・サルコペニア対策
筋肉量は加齢とともに減少します。特に脚・お尻・背中など、大きな筋肉ほど衰えやすい。
これにより生じるのが「ロコモティブシンドローム(運動器症候群)」や「サルコペニア(筋肉の減少)」です。放っておけば、転倒や寝たきりのリスクが増大します。
ウエイトトレーニングによって筋力を維持・強化することは、健康寿命を延ばす上で最もシンプルかつ効果的な方法の一つです。
3. 精神的な安定と自己効力感を得られる
ウエイトトレーニングの魅力は、身体面だけではありません。定期的な筋トレは、うつ病や不安症状の軽減にも効果があるという研究結果が多数あります。
また、トレーニングを通して「できなかったことができるようになる」体験は、自己効力感(self-efficacy)を高め、人生全体の自己肯定感にも良い影響を与えます。
これもまた、競争社会やストレス社会で生き抜くために必要な“心の筋力”を育ててくれるのです。
「不自然」でも「本質的」な行為
ウエイトトレーニングは人工的で、不自然で、時には過剰に商業化された側面すらあります。しかし、それは「現代という不自然な社会を生き抜くために、人間が獲得した新しい“適応行動”」とも言えるのではないでしょうか。
森の中で暮らしていたら必要なかったトレーニングかもしれません。しかし、エレベーターで移動し、パソコンに向かって何時間も座る社会に生きる今、私たちは意識的に筋肉を鍛えることで、ようやく“自然な身体”を維持しているのです。
まとめ:資本主義社会が生んだ筋トレ、だけど……
確かにウエイトトレーニングは、資本主義的価値観と深く結びついています。見た目を良くしたい、成功者に見られたい、健康を商品にしたい……そういう願望にビジネスが結びついた結果、今の筋トレ文化があるのは間違いありません。
しかし、その背景を知った上でもなお、ウエイトトレーニングには価値があります。
むしろ、「意識的に鍛えること」を通して、自分の身体に対して責任を持ち、現代社会の“便利すぎる罠”から自分を守る術を身につけることができるのです。
筋トレは、単なる運動ではありません。
それは“身体の自立”であり、現代社会における「自分を取り戻す行為」なのかもしれません。
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